半日オフの日に、本当に久しぶりに、ストリーミングで映画を1本見ました。
土日も平日もなく、ずっと走り続けていた時期だったので、良い息抜きになりました。
見たのは『決断するとき』という作品です。
アイルランドを舞台に、実在した女性の収容施設「マグダレン修道院」の問題を描いた、世界的な小説を映画化したもの。
見終わってから、ずっと頭に残っていることがあるので、その話をさせてください。
※ここから少しネタバレになります。これから見る予定のある方は、気をつけてくださいね。
慎ましく、一生懸命に生きている人の話
主人公は、家族と慎ましく暮らす石炭商人です。
彼自身、幼い頃は貧しくて、
でも、誰かに助けられたことで、無事に大人になることができた人。
今は真面目に働いて、
決して裕福ではないけれど、
温かい家庭を築いて、切り詰めながら暮らしています。
舞台は1985年。
古き良き世界観の中で、一生懸命に生きている人なのですね。
そんな彼が、石炭を届けに訪れた地元の修道院。
この修道院は、町に対して絶大な権力を持っていました。
彼はそこで、収容されている女性たちの過酷な現実を目にしてしまいます。
そして、ある少女から「ここから出してほしい」と懇願されるのです。
町じゅうが「分かっていて、黙っている」
周りの人たちは、こう言います。
「何を思い悩んでいるんだ」
「これまで築き上げてきた生活を、壊す気か」
「修道院を敵に回したら、この町では生きていけなくなる」
町の人たちも、問題があることは分かっているのです。
分かっていながら、黙認している。
この映画が怖いのは、悪人がほとんど出てこないところだと思いました。
出てくるのは、自分の暮らしを守ろうとしている、ふつうの人たちです。
彼は、自分が今あるのは、かつて救ってくれた人がいたからだ、ということを思い返します。
助けるべきか、見過ごすべきか。
その葛藤の末に、、、、目を瞑っていられなくなって、少女を助けるほうを選びます。
それが、すごく淡々とした流れの中で起きる。
映画はそこで静かに終わります。
不気味さも含めて、深く心に刺さる作品でした…。
恐れは、まず「足を止める」
人は、恐れがあるからこそ、行動を起こせなくなって足を止めてしまいます。
実際に悪事に手を染めている人たちは、もう善意が見えなくなっているのかもしれません。
でも、多くの人は、これが決して良いことではないと分かっているはずです。
感性が動いている人なら、心が痛んでいるはず。
それでも、動けない。
「やられるかもしれない」という恐れは、人を戦う方向に駆り立てることもあります。
でも同じ恐れが、人を立ちすくませもする。
フランスの医師・生理学者のアンリ・ラボリは、戦うことも逃げることもできない状況に置かれたとき、生き物は「行動を抑える」という反応に入る、と考えました。
そしてその状態が長く続くことのほうが、体にとって重い負担になる、と。
Ray Peatも、このラボリの仕事をくり返し取り上げていました。
逃げ場のない恐れの中で、じっと動かずにいる。
町の人たちの「黙認」は、冷たさというより、この「立ちすくみ」に近いものに見えます。
そして、立ちすくんでいるあいだも、心は痛み続けている。
痛みを感じながら動けないというのは、実はいちばん消耗する状態なのかもしれません。
余裕がないとき、脳は「いつもどおり」を選ぶ
脳は、エネルギーに余裕がないときほど、新しいことや危ないことを避けて、「いつもどおり」を選ぼうとします。
いつもどおりなら、予測が外れない。
予測が外れなければ、余計なエネルギーを使わずにすむ。
燃料が足りないときの脳にとって、これはとても合理的な判断なのですね。
だから、暮らしが苦しいときほど、人は「波風を立てない」ほうへ寄っていく。
町の人たちが悪いのではなく、
暮らしをぎりぎりで回している人ほど、恐れを越えるための余白が残っていない。
そういう面も、あるのだと思います。
(主人公も、決して余裕のある暮らしではありません。それでも動いた。だからこそ、この映画は静かに怖くて、静かにあたたかいのですよね)
恐れを越えさせたのは、「助けられた記憶」
では、何が主人公に恐れを越えさせたのか。
彼の場合は、「自分も誰かに助けられて、今ここにいる」ということでした。
自分が生かされていることへの、感謝。
それを思い出したとき、人は恐れを越えて行動できるのではないか。
そう、強く感じたのでした。
これは私の見方なのですが、
「助けられた記憶」というのは、脳にとって「世界は、自分を見捨てなかった」という記録なのだと思います。
恐れは、「この先、見捨てられるかもしれない」という予測から生まれます。
そこに、「かつて見捨てられなかった」という実際の記憶が重なると、予測の重さが少し変わる。
足を止めていた恐れが、ほんの少し緩む。
その「ほんの少し」で、人は一歩を出せるのかもしれません。
周りがどう思うか、ではなく、
自分は何に支えられて、ここにいるのか。
軸がそちらに移ったとき、人はようやく、自分の感性に従って動けるのだと思います。
あなたの「助けられた記憶」は?
あなたにも、「分かっているのに、見て見ぬふりをしてしまったこと」や、「本当はこうしたいのに、怖くて足が止まっていること」は、ありませんか?
もしあるなら、それはあなたが冷たいからでも、弱いからでもないのだと思います。
恐れの中で立ちすくんでいる、というだけ。
そのときに、ご自分がこれまで誰に助けられてきたかを、ひとつ思い出してみる。
それだけで、足の重さが、少し変わるかもしれません。
この記事は、石井恵子のニュースレターでお届けした内容をもとにしています。
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